中国私的年表
この年代に関連して読んだ本 †
超略年表 †
| 西暦 | 事柄 | | 編集 |
| 紀元前1122~1027年頃 | 殷滅亡。武王が即位し、(西)周王朝が成立 | | 編集 |
| 紀元前1122~1027年頃 | 三監の乱が起こる | | 編集 |
| 紀元前841年 | 厲が晋に亡命する。ここより『史記』の年表が始まる | | 編集 |
| 紀元前826年 | 厲死去、太子・宣王が即位する | | 編集 |
| 紀元前825年 | 西戎討伐 | | 編集 |
| 紀元前785年 | 宣王が大臣の杜伯を殺害 | | 編集 |
| 紀元前782年 | 宣王死去。太子・涅が即位。これが西周最後の王である幽王となる | | 編集 |
| 紀元前777年 | 幽王が褒姒を寵愛し、王后と太子・宜臼を廃し褒姒を正后に立てる | | 編集 |
| 紀元前774年 | 襃?の生んだ子供・伯服を太子とする | | 編集 |
| 紀元前771年 | 申侯が異民族の犬戎と結んで周都の鎬京を陥落し幽王殺害。元太子の宜臼が平王として即位 | | 編集 |
| 紀元前770年 | 平王が東の洛邑(洛陽)へ遷都。以後、東周又は春秋時代と呼ばれる | | 編集 |
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西周王朝の成立 †
姫昌が反殷の為に下準備をするが、出兵前に病没。
謚を文王という。
跡を継いだ武王・姫発が、軍師・太公望(本名は不明、呂尚や姜子牙と言われている)を従えて殷討伐の兵を起こし、牧野の戦いで殷を破った。
紂王は討たれてここに600年30代の殷王朝は滅亡し、周王朝が成立した。
周成立した年代には諸説があり定まっていない。
最も有力なものは『夏(殷)商周年表』にある紀元前1046年だが、紀元前1122年~1027年説まであり一世紀近く開きがある。
また文化面では殷に比べて当時は辺境に位置した為、劣っていたと言われている。
西周の隆盛 †
王朝成立して暫くして、武王・姫発が亡くなってしまう。
武王は殷の祭祀を守るため紂王の子供・武庚を諸侯に取り立てて、武王の弟3人を監視役とした。
これを『三監』というが、この三監が武王の死後、武庚と結んで叛乱を起こした。
武王の跡を継いだ幼い成王を補佐して叛乱を鎮圧したのは武王の弟で摂政にして周公の姫旦であった。
姫旦は一般的には周公旦と呼ばれ、周王朝の基盤を整え諸侯による分割統治と国法・国家組織・官僚制度まで、ありとあらゆる制度に取り組んでいる。
周は成王と康王の時代に『成康の治』と称えられる隆盛期をむかえるが、その後は衰退の一途を辿る。
西周の滅亡 †
10代目の厲王のとき、人々が共有していた川や山まで天子の専有地にしたことから民衆が反乱を起こした。
厲王は晋に亡命する。
天子不在の間、重臣達で共同の政務を担当する『共和政治』が誕生した。
共和元年を紀元前841年にあたり、中国史上初めて年数が確定出来る事項となっている。
司馬遷の史記にも歴史上の出来事をまとめた年表があるが、その表も共和元年から始まっている。
天子不在の政治は15年続いた。
厲王が亡命先で亡くなった後に太子が宣王として即位し王室も再興された。
しかし宣王の跡を継いだ幽王の時代に異民族の襲来にあって王は殺害される。
これによって西周王朝は滅亡する。
後に東の晋に亡命王朝が出来るが、諸侯を統制する力は無く、以後諸侯が覇権を賭けて争う春秋・戦国時代へと突入する。
人物伝 †
太公望は東海ほとりの人である。
名前を呂尚または姜子牙と言われている。
夏王朝の禹を補佐し、治水工事で呂の地の封じられた為、もともとは姜姓であったが呂姓を名乗っていた。
西伯姫昌が渭水のほとりで釣りをしている貧乏そうな老人に話しかけた。
するとこの人物はなかなかの見識の持ち主であった為、召抱える事にした。
西伯姫昌は彼の見識の高さを称えて
「私の亡父(太公)の時から"やがて周に聖人が現れその人物を助けによって国が栄えるだろう"と言い伝えられている。貴方こそまさにその聖人である」
と言った。
太公が待ち望んだ人物、すなわち『太公望』である。
太公望が貧乏であったエピソードは有名で、あまりの貧乏さに女房に逃げられたことでも知られる。
その後、西伯姫昌に重用され太公望の名声が高まってくると逃げた妻が復縁を求めて来るが、太公望はお盆の水を庭にこぼして言った。
「こぼれた水は戻す事は出来ない。同じように我々が復縁するのも無理な相談だ」
これが『覆水盆に返らず』の故事になったと言う。
太公望を西伯姫昌は『師』と仰いで重用した。
太公望は中国初めての兵法書『六韜』を記したと言われている。
西伯姫昌が没した後は武王・姫発に仕えた。
武王即位から9年後に一度、周は殷を攻め込むが途中で引き返した。
更に2年後に本格的に東征に乗り出した。
占いの結果『凶』と出ながらも太公望が強く進軍を進めた結果、周は勝利する。
その後、太公望は斉の営丘に封ぜられる。
斉公となり100余歳の天寿をまっとうしたと言われている。
春秋時代の斉公は太公望の子孫だと言われている。