[[ものぐさヒトモドキwiki]] #author("2023-05-08T09:57:59+09:00","default:mou","mou") [[ものぐさwiki]] #setlinebreak(on) 閲覧数表示 本日/トータル: &counter(today); / &counter(total); &br; オンラインユーザー数: &online; &br; 最終更新:&lastmod();&br; &br; 2010年1月28日~31日まで中国に行ってきたときのみやげ物です。 一つ10元(150円ぐらい)で買ったものです。 ----- #ref(00_始皇帝_嬴政.jpg) &ruby(しん){秦};の&ruby(しこうてい){始皇帝};・&ruby(えいせい){嬴政};。 秦王として紀元前246年に即位した。 前221年中国史上初めて中華文明圏を統一し、皇帝という称号を用いた人物。 儒教を嫌い法治主義を好んだために、後年大悪人と呼ばれる。 ,生没年,前259年1月~前210年7月 ,在位期間,前246年 - 前210年7月 ,王朝,秦 ,都城,咸陽 ----- #ref(01_漢武帝_劉徹.jpg) 前漢の武帝・劉徹(りゅうてつ)。 在位期間:前141年 - 前87年 漢帝国史上最も長い間即位し、最も国土を広げた皇帝。 衛皇后の弟・衛青(えいせい) 大将軍、甥・霍去病(かくきょへい) 驃騎将軍に よる北(匈奴)への外征に成功して調子にのって、李夫人の兄・李広利(りこうり)を 弐師将軍にして外征して失敗する。 更に家臣の嘘を信じて皇太子を殺害。 半世紀を超える治世の後半は老害により妻子孫を殺しまくり孤独な死を迎える。 ----- #ref(02_漢光武帝_劉秀.jpg) 後漢の光武帝・劉秀(りゅうしゅう)。 在位期間:25年 - 57年 漢六代皇帝 景帝の子孫。皇位継承権の無い 皇族の三男坊だったが、漢帝国を復興させた。 ----- #ref(03_魏武帝_曹操.jpg) 三国志の魏武帝・曹操(そうそう)。 文化保護政策等で現在の史学に多大な影響を残した人物。 孫子の兵法書は曹操が再編纂したものが現在に伝わっているとされる。 ----- #ref(04_漢昭烈帝_劉備.jpg) 三国志の蜀漢の昭烈帝・劉備(りゅうび)。 三国志演義の主人公として有名だが、史実は・・・・・・。 ----- #ref(05_呉大帝_孫権.jpg) 三国志の呉の大帝・孫権(そんけん)。 三国志演義で主人公格として描かれるが、 他の二人の君主に比べて前線に出ることが少なかった為か、知名度は二人より低い? ----- #ref(06_晋武帝_司馬炎.jpg) 晋王朝の武帝・司馬炎(しばえん)。 三国志に登場する諸葛孔明のライバル、司馬懿(しば い)の孫で司馬昭の息子。 漢帝国滅亡後、百年ぶりに統一を果たすまでは英雄だったが、 統一後は一万人に居たといわれる後宮を作ったり、 賄賂が蔓延ったりで好き勝手やって晋滅亡フラグを立てて世を去る。 名君か暗君か評価の分かれる人物である。 ----- #ref(07_南朝宋武帝_劉裕.jpg) 南北朝時代の南朝宋の武帝・劉裕(りゅうゆう)。 東晋の皇室一族を皆殺しにして、南朝の宋の初代皇帝となる。 王朝名は後世の史家により劉宋と称される。 ----- #ref(08_隋文帝_楊堅.jpg) 隋王朝の文帝・楊堅(ようけん)。 静帝を初めとする北周の皇族の宇文氏一門を皆殺しにして即位。 後に300年ぶりに天下統一を果たした。 九品中正法を廃止し、新たに科挙制度を設け、 仏教の興隆にも尽力した一代の名君といわれている。 ----- #ref(09_隋煬帝_楊広.jpg) 隋王朝の煬帝(ようだい)・楊広(ようこう) 隋朝の第2代皇帝で中国史を代表する暴君といわれる。 短命王朝で、後の唐王朝の正当性を示す為に暴君とされた説もある。 史実としては、高句麗遠征に失敗した事により求心力を失い、亡国の主となったことは確のようだ。 ----- #ref(10_唐高祖_李淵.jpg) 唐王朝の高祖・李淵(りえん)。 温和だが優柔不断な人物と描かれやすい。 長安を拠点とし、隋の恭帝から禅譲を受けて皇帝となるが、 皇太子(長男)・李建成と最大実力者(次男)・李世民の政争を止められず、 玄武門の変により皇太子が殺害されると、軟禁状態にされたまま635 年に死去した。 ,在位期間,618年 - 626年 ,生没年,566年~635年5月 6日 ,年号,武徳(618年 - 626年) ----- #ref(11_唐太宗_李世民.jpg) 唐王朝の太宗・李世民(りせいみん)。 唐朝の第2代皇帝。兄の李建成を殺害し皇帝に即位した。 唐王朝の基礎を固める善政を行い中国史上最高の名君の一人と称えられる。 文武に優れ、隋朝から唐朝への統一戦争時でも中心的な役割を果たす。 治世は『貞観の治』と称えられている。 余談だが西遊記に登場する&ruby(げんじょうさんぞうほうし){玄奘三蔵法師};が(史実として)旅をしたのもこの時代。 ,生没年,599年~649年 ,年号,貞観(627年 - 649年) ,在位期間,626年 - 649年 ,都城,長安 ----- #ref(12_唐武后_武則天.jpg) 唐の武后・武則天(ぶそくてん)。 武周朝唯一の皇帝で、唐の高宗の皇后、中国史上唯一の女帝。 漢代の呂后、清代の西太后とともに「中国三大悪女」と称されている。 ----- #ref(13_唐玄宗_李隆基.jpg) 唐の玄宗・李隆基(りりゅうき)。 唐の第6代皇帝で、治世の前半は開元の治と呼ばれる善政で唐の絶頂期を迎えたが、 後半は日本でも有名な&ruby(ようきひ){楊貴妃};を寵愛したことで安史の乱の原因を作っている。 ぶっちゃけ唐の滅亡フラグを建てた人。 ----- 南朝の宋の初代皇帝。 #ref(14_北宋太祖_趙匡胤.jpg) 北宋の太祖・趙匡胤。 後周の恭帝から禅譲を受けて皇帝となり、国号を宋とした。 ----- #ref(15_北宋太宗_趙炅.jpg) 北宋の太宗・趙炅(ちょうけい?) 北宋の第2代皇帝。太祖趙匡胤の弟。諱は匡義であったが、 兄帝の名を避諱して光義、即位してからは炅(日の下に火)に改めた。 悲願である中国の再統一を達成し、それまでの軍人政治から文治主義への転換に成功した。 一方、兄の太子を自害させたりと疑惑の多い人物でもある。 ----- #ref(16_北宋真宗_趙恒.jpg) 北宋の真宗_・趙恒 北宋の第3代皇帝。 ----- #ref(17_北宋徽宗_趙佶.jpg) 北宋の徽宗(きそう)・趙佶 北宋の第8代皇帝。 文人、画人としての徽宗はその才能が高く評価され、宋代を代表する人物の一人とされる。 一方、為政者としては小説『水滸伝』のモチーフに用いられるほどの悪政であった。 ----- #ref(18_北宋欽宗_趙桓.jpg) 北宋の欽宗(きんそう)・趙桓 欽宗(きんそう)は北宋の第9代(最後の)皇帝。 徽宗と欽宗は金軍により捕虜となり(靖康の変)、 1128年に韓州(吉林省梨樹県)をへて1130年 東北の五国城(黒竜江省依蘭県)へと連れ去られた。 欽宗はその後も30年以上にわたって東北に監禁され続け、 その地で亡くなり、正確な没年すら明らかではない。 ----- #ref(19_南宋_高宗_趙溝.jpg) 南宋の高宗(こうそう)・趙溝 南宋の初代皇帝で、北宋の第8代皇帝であった徽宗(きそう)の 9男。 皇族が北へ連れ去られる『靖康の変』が発生した際に南京(現在の商丘市)に逃れていた。 皇位継承者が居なくなったために、白羽の矢が立てられ皇帝となったが、 即位の正当性が不明瞭だったため、政局は安定しなかった。 和平派の秦檜を宰相に任用し、主戦派である岳飛を秦檜によって処刑されている。 ----- #ref(20_南宋_理宗_趙昀.jpg) 南宋の理宗・趙昀。 理宗(りそう)は南宋の第5代皇帝。 1234年にはモンゴル帝国のオゴデイと同盟を結んで金を滅ぼしたが、 戦後処理や領土分割問題などからやがてモンゴルと対立するようになる。 この対立が後の南宋滅亡フラグとなる。 ----- #ref(21_モンゴル帝国チンギス・ハーン.jpg) モンゴル帝国チンギス・ハーン モンゴル帝国の初代皇帝(大ハーン)(在位1206年 - 1227 年)。 世界最大の帝国建国の父。 余談だがジンギスカンはチンギス・ハーンが訛った物らしい。 ----- #ref(22_モンゴル帝国オゴデイ・ハーン.jpg) モンゴル帝国オゴデイ・ハーン オゴデイはモンゴル帝国の第2代モンゴル皇帝(カアン、大ハーン)。 ハンガリー王国(アールパード朝)、ポーランド王国(ピャスト朝)など 東欧の大半までを制圧するに至った征服王であるが、 肥大化しすぎたために、後の分裂の種を作ってしまった。 ----- #ref(23_元世祖フビライ・ハーン.jpg) 元世祖フビライ・ハーン モンゴル帝国分裂の最中、はじめて国号を「大元」と定め、 中国の華北を直接支配した。 ----- #ref(24_元成宗テムル.jpg) 元成宗テムル モンゴル帝国第6代モンゴル皇帝。 ----- #ref(25_元武宗カイシャン.jpg) 元武宗カイシャン モンゴル帝国(元)の第7代皇帝。 ----- #ref(26_元文宗トク・テムル.jpg) 元文宗トク・テムル モンゴル帝国(元)の第12代皇帝。 ----- #ref(27_明太祖洪武帝_朱元璋.jpg) 明の太祖で洪武帝(こうぶてい)・朱元璋(しゅげんしょう)。 明朝の創始者であり、初代皇帝、廟号は太祖(たいそ)。 その治世の年号を取って洪武帝(こうぶてい)と呼ばれる。 幼名は朱重八(しゅ じゅうはち)といい、後に朱興宗(しゅこうそう)と改名し、 紅巾(こうきん)軍に参加する頃にさらに朱元璋と改名し、字を国瑞(こくずい)とした。 流民の孫で、貧農の息子、商家の丁稚奉公に、寺の小坊主に托鉢僧と 辛酸を嘗め尽くした後に、反乱軍である紅巾(こうきん)に参加し頭角を現す。 貧しかった頃を嫌い『文字の獄』と呼ばれる知識人弾圧を行い、その後も粛清を繰り返した。 ----- #ref(28_明第3代成祖(太宗)永楽帝.jpg) 明第3代成祖(太宗)永楽帝 ----- #ref(29_明第5代宣宗宣徳帝.jpg) 明第5代宣宗宣徳帝 ----- #ref(30_明第6代英宗正統帝.jpg) 明第6代英宗正統帝 ----- #ref(31_明第7代代宗景泰帝(8代目は重祚で英宗).jpg) 明第7代代宗景泰帝(8代目は重祚で英宗) ----- #ref(32_明第9代憲宗成化帝.jpg) 明第9代憲宗成化帝 ----- #ref(33_明第10代孝宗弘治帝.jpg) 明第10代孝宗弘治帝 ----- #ref(34_明第11代武宗正徳帝.jpg) 明第11代武宗正徳帝 ----- #ref(35_明第12代世宗嘉靖帝.jpg) 明第12代世宗嘉靖帝 ----- #ref(36_明第13代穆宗隆慶帝.jpg) 明第13代穆宗隆慶帝 ----- #ref(37_明第14代神宗万暦帝.jpg) 明第14代神宗万暦帝 ----- #ref(38_明第15代光宗泰昌帝.jpg) 明第15代光宗泰昌帝 ----- #ref(39_明第16代熹宗天啓帝.jpg) 明第16代熹宗天啓帝 ----- #ref(40_明第17代毅宗崇禎帝.jpg) 明第17代毅宗崇禎帝 ----- #ref(41_清初代ハーン_ヌルハチ.jpg) 清初代ハーン_ヌルハチ ----- #ref(42_清第2代皇太極_愛新覚羅黑還勃烈.jpg) 清第2代皇太極_愛新覚羅黑還勃烈 ----- #ref(43_清第3代順治帝_愛新覚羅福臨.jpg) 清第3代順治帝_愛新覚羅福臨 ----- #ref(44_清第4代康熙帝_愛新覚羅玄燁.jpg) 清第4代康熙帝_愛新覚羅玄燁 ----- #ref(45_清第5代雍正帝_愛新覚羅胤禛.jpg) 清第5代雍正帝_愛新覚羅胤禛 ----- #ref(46_清第6代乾隆帝_愛新覚羅弘暦.jpg) 清第6代乾隆帝_愛新覚羅弘暦 ----- #ref(47_清第7代嘉慶帝_愛新覚羅顒琰.jpg) 清第7代嘉慶帝_愛新覚羅顒琰 ----- #ref(48_清第8代道光帝_愛新覚羅旻寧.jpg) 清第8代道光帝_愛新覚羅旻寧 ----- #ref(49_清第9代咸豊帝_愛新覚羅奕詝.jpg) 清第9代咸豊帝_愛新覚羅奕詝 ----- #ref(50_清第10代同治帝_愛新覚羅載淳.jpg) 清第10代同治帝_愛新覚羅載淳 ----- #ref(51_清第11代光緒帝_愛新覚羅載湉.jpg) 清第11代光緒帝_愛新覚羅載湉 ----- #ref(52_清第12代宣統帝_愛新覚羅溥儀.jpg) 清第12代宣統帝_愛新覚羅溥儀 ----- #ref(53_漢高祖_劉邦.jpg) 漢高祖_劉邦 沛県の亭長(コッパ役人)であったが、 反秦連合に参加した後に秦の都咸陽を陥落させ一時は関中を支配下に入れた。 その後項羽によって西方の漢中へ左遷され漢中王となる。 その後に東進して垓下に項羽を討ち、(前)漢を興した。 正確な廟号・諡号は「太祖高皇帝」だが、通常は高祖と呼ばれることが多い。 在位期間 BC202年 - BC195年 首都:長安 姓・諱:劉邦、字:季 -----